裏庭カーペンター

雑多な思考の末、生み出された子たち

心穏やかに恐れたい

「こんなはずではなかった2020年」になってしまった。

いつも心はざらついていて、ただ漠然とした緊張と不安が渦巻く。

いったい、どこが「曲がり角」だったのだろう。

私自身、件のウイルスを甘く見ていた時期は決してなかった。はずだったのだが。

いま省みると、ただ漫然と楽観的に構えていた部分があったことも否めないような気がしている。

正直なところ、ここまでの険しい情勢を迎えてしまう未来は、全く想像の範疇にはなかったのだから。

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時は戻せない

こうしている今も、刻一刻と変化するコロナ禍のフェーズ。

感染拡大に歯止めをかけるべく、何かにつけて不便や我慢を強いられる場面は増えた。

そして、それらはきっとこれからも増えるのだろうと見通さざるを得ないような趨勢でもある。

あたりまえのようにあった日常が遠い。

かつて生活の傍らにあったものは、どんどんと手のひらからこぼれ落ちていく。

出口の見えないトンネルにフラストレーションが積み重なり、メンタルが蝕まれる。

なので、せめてマインドぐらいは、どんな状況下でも穏やかでいられるどしっとした心構えがほしい。

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こんなんなんぼあってもいいですからね

日々、ウイルスの脅威に目まぐるしく振り回される生活の中で、その間、私はぼんやりとでも何を考えてきたのか。いま、どのような感情を抱いているのか。そして、自分なりに何を心掛けているのか。

こんな時期だけれど、というよりも寧ろこんな時期だからこそ、ぐちゃっとした思考を丹念になぞり返し、ひとつの記録として残しておいた方がいいかもしれないなぁと思い、この編集画面を眺めている。

あくまでも「己のために」残す記録だ。

そこで示されるのは、自己視点に基づいた私の価値基準などを整理したようなものに過ぎない。

なので、これにより「世の中はかくあるべき!」「お前も襟を正せ!」などと偉そうに講釈を垂れ、妙な正義感を振り翳して思想を強いる類の主張をするつもりは毛頭ないということは理解いただきたい。

もしも、数奇な巡り合わせで本稿へと迷い込んでしまった人がいれば、「こんな風に考えている奴もいるんだな」というケーススタディ程度の心持ちで読み進めていただければ幸いだ。

 

 

◎感染者の行動履歴をめぐる「空気のゆらぎ」に思うこと

新たな感染者が確認された時、都道府県などが開く記者会見。

そこで感染者の直近2週間ほどの行動履歴が示されるのも、すっかりお馴染みとなった観がある。

日本の新型コロナ感染抑制の最前線を担っているのは、感染症専門家らで構成している厚生省のクラスター対策班」と呼ばれるチームだ。

彼らの分析が主眼を置くのは、集団感染を起こす「クラスター」発生の端緒を早期に捉え、関係機関と連携し、二次感染拡大の芽を潰す具体的対策へつなげることである。

こうした手法は、流行初期段階の日本での感染拡大ペースを可能な限り緩やかなものとし、そのピークを遅らせるという点において多大な成果を上げたと言っていいだろうと思う。

国内の状況を注視し、それぞれの感染ケースを可能な限り地続きのものとして捉える―。

そのようなつぶさな分析を可能にするためには、感染者が確認されるたび、彼らの行動履歴を綿密に把握することが非常に重要な意味を持つであろうことは、素人の私でも容易に想像がつく。

そうした事情を踏まえた上で、これらを詳らかになぞる報道が加熱していくこととなる訳だが、当初、これについては大きな波紋を呼んでいたように記憶している。

私から見える範囲では、自らが感染者となった場合を危惧し、世間に対して明け透けにしたくないプライバシーが侵されてしまう可能性への抵抗感の表明が根強くあったが、最近は慣れも出てきたのか、そのような声がかなり薄れてきたような印象だ。

ところが、かわって「こんな時に感染拡大地域を訪問するのは頭がおかしい!」だとか「自分がすでに感染している可能性も考慮せず、田舎へ"疎開"する奴は断罪だ!」といった自覚なき行動への罵倒が目立つようになったな、とも同時に感じている。

こうした「空気のゆらぎ」のようなものに、もやっとした居心地の悪さを覚えてしまう。

というのも、これは極端な想像でしかない話だが。

そこに「アルバイトで貯め込んだ資金でようやく行ける念願の海外旅行を捨て、その資金から小さくない額のキャンセル料を支払った事実だけが残ることへの葛藤」だとか、はたまた「一連の自粛続きによってなんとか生活を回してきた収入源が絶たれ、どうすることもできない経済苦から地方の実家へ身を寄せざるを得なくなった苦悩」などがあったとしたら…?

感染者として公となってしまう以前、そうした抱えきれない逡巡の末に行動へ移してしまった事実がもしもあったのだとしても、われわれ市井の人間には決してその過程が見えることはない。

感染抑制の観点からみれば、海外渡航を含む感染拡大地域への訪問や、流行地域から情勢が比較的穏やかな地域へと身を移すことなどは現在、一般的には思慮に欠けた軽率な行為だと思っている。

ただ、そこに至るまでのプロセスにあった個々の事情はわからない。

ならば、その行動から「感染を広げてやろう」といった明確に意図的な悪意が示されていない限り、行動履歴から表面的に見える部分だけを掬い取り、ただ十把一絡げに感染者に向けて乱暴な言葉を投げつけるのは慎まなければならないとの意識も強く感じている。

翻って、今後、私自身が新型コロナに感染してしまうことだってあるかもしれない。

もちろん「こまめな手洗い・うがい」「"3密(密閉・密集・密接)"を避ける」「不要不急の外出を控える」といった基礎的な感染リスクの回避行動を徹底しているつもりではある。

しかし、これらの徹底具合を測る尺度は結局、各々が持つ解釈コードに依拠するものだ。

自分なりの懸命な予防行動も虚しく、感染者となってしまった私の行動履歴が示されたら、それがたとえ私にとって「十分」な警戒であったとしても、世間から見れば「不十分」に映ることは大いにありえる話だと思っている。

その時いったい、どのような罵詈雑言を浴びることになるのだろう。時折、ふと想像してしまう。

悠長なことを言っていられる情勢でなくなったことは間違いない。

一人ひとりが生活行動を振り返り「この行動にはどのようなリスクが潜むのか?」をより真剣に考え、対人接触を減らす具体的方策をただちに実行すべき局面に差し掛かってしまったのだと痛切に感じている。

ただ、それでも感染者の行動履歴の把握は、その意識の低さをあげつらって溜飲を下げるためにあるのではなく、あくまでも感染ルートや濃厚接触者を捕捉するための手段であり、感染リスクにまつわる自己認識を改めて引き締める契機となるものとして位置づけていたい。

これまでも、これからも、それ以上の意味を持つことがあってはならない。

情報の受け手側として、そう肝に銘じている。

 

 ◎どうやって「応援」すればいいのだろう

正常性バイアス(nomalcy bias)」という心理学用語がある。

近年では、自然災害などへの備えの姿勢を説くような場面でよく耳にするようになった。自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまう…といったものだ。

こうしたバイアスが働くことで、都合の悪い情報を無視してしまったり、「自分は大丈夫」などと事態を過小評価してしまったりすることに陥り、非常時に十分な回避行動が取れなくなることに繋がるのだという。 

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これは「国道2号線バイパス」である。関係ないよ。

コロナ禍においては、いわゆる「自粛疲れ」の文脈で用いられることが多い。

3月20~22日の3連休、各地の観光地が多くの人出でにぎわいを見せたという。

その背景には、2月から感染防止の取り組みを続けてきた「疲れ」から働いた正常性バイアスがあり、一時的な警戒感の緩みから多くの人々を観光行動へと向かわせてしまった―。そんな指摘も目立つ。

世界各地で事態が深刻さを増す一方、当初は感染者の増加ペースが比較的緩やかに推移していた日本国内。ぼちぼち、新型コロナについても「アンダー・コントロール」の範疇に落ち着いてきたのではないか。そんな雰囲気すら少しずつ醸成されつつあるような肌感覚は確かにあった。

しかしながら、この現象を単に正常性バイアスを要因とした娯楽への「逃避」であるのだと一概に片付けてしまっていいのだろうか。同時に、そんな疑問もどうしても拭い切れずにいる。

あの頃、強くあったのは「レジャー産業が死にかけている」という危機感だった。

クラスター感染の温床となりかねない場の自粛ムードが漂い始めた頃、最初に大打撃を受けたのが、他でもない同一空間に不特定多数の人間を集めることでビジネスが成立するイベント産業、そしてインバウンド(訪日外国人観光客)需要を追い風に市場拡大してきた旅行・観光関連産業である。
連日のように各地で中止・延期が発表されるコンサートや舞台、キャンセルが相次ぎ空室だらけとなった旅館やホテル、信じられないほど閑散とした光景が広がる有名観光地…。明らかな異常事態だった。

一方で、大規模災害などの発生後、被災者が最低限の日常を取り戻すための復旧作業が一段落した頃になると、必ずと言っていいほど表れるムーブメントがある。それは、観光地の訪問や食の消費などを通じて「行って応援!」「食べて応援!」といった形で差し伸べられる経済的支援の手だ。

被災地が日常生活を取り戻す過程の中、復興を目指す規模の経済を回していく担い手が地元の人間のみでは限界がある。だからこそ、外部の人間がそこを訪れ、積極的な消費行動でお金を落とす。

こうした行動こそ、これまでの復興支援を経て「正解」のノウハウとして培われてきた。

あの時の観光行動には、こうした善意の「応援」を含むケースが少なからずあったはずだ。

だからこそ、「自粛疲れ」による現象として説明するのは簡潔でわかりやすいものの、その一点のみに焦点を当てて論じてしまうのは、あまりにもぬくもりがないような気がしてならない。

しかし、結果として今回はこれが「正解」ではなかった。その後、感染経路を辿れないケースが急増したことを考えれば、その事実をしかと受け止め、認識を改めねばならないように思う。

ただ、それが明らかとなった今、どうやって「応援」すればいいのだろう。

感染拡大と経済危機の双方に歯止めをかけるべく、あまりにも難しい両輪駆動が求められている。それなのに、公助のスピード感にも、共助で行える支援の形にも、それぞれに限界が見える。

事態が長引けば長引くほど、誰しもがいつまで応援「する」側のスタンスでいられるのかすらわからないのも厄介な問題だ。私自身、数カ月先の生活がどうなっているのか、皆目見当がつかない。

引き続き、スピード感を持ち且つ充足的な公的支援の必要性を訴え続けつつ、それぞれが薄氷を踏む思いで破綻の道を回避するための「正解」を模索し続けることしかできないのだろうか。

無力感が募る。

ただただ歯がゆく、悲しい。

 

◎むすびにかえて

以上が、現在のコロナ禍の中で私の立場から思うことである。

まさか、自分が生きているうちに、物事の正誤を判断するものさしが世界的にこれほどまでに揺らいでしまう事態に直面することになろうとは。今も、現実味があるようなないような、なんだかよく分からない状態で、世界の形が大きく変わらざるを得ない激動の時代に立っている。

この時勢下における本当に「正しいこと」は、現時点で誰にも分からない。

そのため、他人の理解できない主張や振る舞いに苛立ちを覚えてしまうことが平常時以上に多くなるのも、もはや必然的なことなのだと思う。

でも、一刻も早い事態の収束を願う思いは、おそらくほぼ全ての人々に共通した感情であるはず。


だからと言って「一丸となって」だなんて陳腐な言葉を使うつもりはない。

それぞれの立場から、それぞれの生活を守るための主張や怒りはあって然るべきだ。

ただ、そこで相容れない価値観に触れてしまった場合にも、それを頭ごなしに否定することはせず、その人なりの「正しいこと」を追い求めた末の表明なのだということは、常に心のどこかに留めておきたい。

それが「心穏やかに恐れる」ために自分ができる工夫なのかな、と今は思っている。